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Amazonレビューが消えた

とあるIT関連小説家の駄作についてAmazonに真剣レビューを書いて掲載されていたのだが、いつの間にか消えてしまっていました。Amazonで星一つでレビューを書いても消されてしまうのでは、消費者が無駄な出費を避けるためにレビューを利用するということは期待できません。

なぜこれを書いているかというと、とある小説家がとある雑誌に寄稿していた内容があまりにも無様なものであったからです。日本のネトウヨがどうやって世論操作されているかということを解析しているのですが、3ページにもわたる長文にも関わらず結果が示されていません。これには心底がっかりし、編集部に

トロールやボット運用を行っているのは誰かを日本のメディアが暴くべきと一田氏は述べていますが、それこそがFACTAおよび一田氏のやるべき仕事ではないでしょうか。

とメールを書いて送ってしまいました。あ、雑誌名も著者名もバレちゃった。

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2017年お世話になりました。

2017年は色々と充実していて、ここ数年のうちで一番いい年になったんじゃないかと思っています。一年が長かったように感じました。そして、2017年はまだまだ終わらないんじゃないかというような、あと数時間で年が変わるような気がしないままこのテキストを書いています。

ついにダラムサラに旅行に行く。

会社を辞めることにしたので、二週間休みを取ってダラムラサに行ってきました。西欧諸国に行くのには慣れていますがアジアについては全く行ったことがなかったので、準備の段階から色々と調べて行きました。まるで初めての海外旅行のようなドキドキと共に訪れました。現地で友達もでき、日本では見ることのできない宝物をじっくりと拝むこともでき、とても楽しい旅でした。しかし、私はチベット語が話せないので1959を知っている人から直接お話を聞くようなことができず、旅行者が楽しんでいるという段階より先にすすむことができなかったのが残念です。また、ダラムサラはインド北部の街であり、チベット人が多く暮らしていても文化圏としてはインドです。二つの文化がごちゃ混ぜになっているということはなく、インド文化圏の街にチベット人が住んでいるという現状を目の当たりにしました。帰るところのない、自らの国を失ったチベット人。「普段の暮らしには何も困らない、出国するときだけ不便さを感じる」と言うネットワークエンジニアやYouTubeのラップやコメディを英語で聴いている学生と過ごしている彼らに自分たちの文化があまり身の回りにないことについてどう思うか聞いて見ると

「日本だってケンタッキーフライドチキンがあるだろう」

と一蹴されました。ぐぅの音もでませんでした。

そのついでにネパールにも行く。

ダラムサラからカトマンズにも行ってきました。知人がカトマンズに住んでいるため、顔を出してきたのです。個人的には、ニュー・デリーよりカトマンズのほうが好きでした。人々がそこまで急いでいないし、街の規模もそれほど大きくないし、食べ物の当たり外れはあるけどあたり食堂は何を食べても美味しいしで、カトマンズに家を構えて時折山の中で生きていけたら幸せだなぁと思ったのでした。

ネパールから帰国後しばらくして、台湾にも行く。

International Tibet Networkが定期的に開催している勉強会に参加してきました。水曜日は移動日、そのあと日曜日まで連日朝から晩までの学習会です。しかも全部英語で、さらに私が一番得意とするアメリカ英語の話者は一人だけしかいないという内容でした。とってもとっても大変でしたが、得るものも多く刺激的でした。英語の学習に終わりはないということを痛感し、これまでの英語学習法を中断し、初心に戻って暗記を行っています。

レストランの店長を代行する。

都営新宿線曙橋駅から徒歩五分のところにある「タシデレ」というチベット料理店にて、店長を代行しました。そのお店の店長が企画した南インドのチベット寺院をめぐる旅行に出かけてしまうため、留守をお預かりすることになったのです。これまでも注文を取ったり精算したりキッチンの料理人と雑談したりしていたので一つ一つの作業は分かってはいました。しかし丸一日レストランに滞在して店長として働くことは初めての経験で、面白くもあり厳しい面もある仕事でした。想定外の問題も発生しましたが、なんとか乗り越えてきました。みなさん、お気に入りのレストランには足繁く通ってくださいね。お客さんが来てくれることが何より嬉しい、そういう気持ちがよくわかる経験でした。

フジロックのNPO/NGOブースに出店する。

これまでに挙げて来たことと比べると幾分か簡単なことに類されるのですが、フジロックのNGOヴィレッジにStudents for a Free Tibet Japanが出展しました。説明会に行けないことがあったり、搬入に参加できなかったりと、予定が合わず一部分だけの参加になったのが残念でしたが、久しぶりに山の中でテント泊を体験しました。山の中ならではの雨や気温の変動も心地よく、つくづく東京都は暮らしづらい場所だと改めて思います。

Dhondup WangchenとLamo Tso。

2008年北京オリンピックを開催することについてチベット人のインタビューを集めた映画を撮ったDhondup Wangchenさんは出獄後も中国当局の監視下に置かれ自由な行動はできませんでした。彼のパートナーLamo Tsoを主人公にしたドキュメンタリー映画「ラモツォの亡命ノート」が今年公開され、私も協力させていただきました。そしてこの映画が無事に公開され、そして、なんとDhondup Wangchenが無事に米国に亡命することができました。チベット支援者にとって今年一番良いニュースとなりました。私の個人的な出来事ではないのですが、私の2017年をまとめるにあたりこれは重要なニュースなのです。チベットを取り巻く状況は根本的には改善しておらず、焼身抗議が続いています。Dhondup Wangchenさんは亡命することができましたが、チベットの地では今もチベット人が自由を奪われたまま暮らしています。Dhundup Wangchenさんの問題が解決しただけではチベット問題は解決しません。次には5日後にTashi Wangchukさんの裁判が始まってしまいます。決してあきらめず、声を上げ続けていかねばなりません。

变态辣椒さん米国に出国する。

2016年に出会っていた变态辣椒さんと仕事をしていたのですが、急遽彼が米国に移ることとなりました。彼は今、米国で住まいも仕事も得て元気に活躍しています。彼が日本という国家を選ばず米国を選んだということが残念ですが、私の手元には彼が集団的自衛権のデモの際に掲げた絵が三枚残されました。彼は次のようなことを言っていました。

「日本という国は、政府に対して反対意見を言うこともでき、そこでさらに意見を述べることもできる。」

この言葉と彼が残した絵を、常に心に留めて活動を続けていこうと思っています。

Liu Xiaobo死去。

ノーベル平和賞受賞者のLiu Xiaoboがついに亡き人となってしまいました。中国のやり方に対して、絶対に屈せず、折を見てこんな写真を撮っていこうと思っています。

https://www.instagram.com/p/BcYloXrHY3e/

Clothesline Project再開。

久しぶりに女性関連の活動です。といってもClothesline Projectは女性だけでなく性的暴力の被害者の気持ちを表現する方法を提供する団体なので「女性問題」と書いたら代表におこられちゃいますが。チベットと仕事と三足のわらじは大変なので、できる範囲で活動していこうと思っています。

新しくできた友達。恩師に会いにいく。

新しい仕事仲間もできました。一緒に会社を辞めた同僚と友達になったりしました。大学の国語の先生に会いにバイクで一泊二日の旅行をしたりしました。人と人との繋がりはFacebookなどで一変するという意見もあると思いますが、昔ながらの対面そして対話は非常に重要だと改めて思っています。

しかし、対面で対話していても人の本質が見えなかったことも今年はなんども経験してきました。僕のことを「中原中也のようだ」と評した人は、仕事を全くせず会社でもゲームをやるかまとめサイトをみるだけの給料泥棒だったことがわかりました。一緒に働いていたとある人は何もしない顧客を相手にした大変な案件を「母親が死にそう」と言いながら担当し続け、「妻が退職して母を介護することになったからもう大丈夫」と言い、そのうち母親の生死が不明のまま出社しなくなりました。やはり一緒に働いていた別のもう一人の人は、逮捕されました。三人とも私の目から見ておかしいとは思えず(母親はどういう容態なんだろうとは思っていましたが)、自分には人を見る目がないんだろうな、ということに気付かされた年でもありました。

年間撮影枚数一万枚以上か?

写真撮影のテクニックは上がってきたように思います。Macの中身を確認してみるとチベット関連で1596枚の写真を保存してありました。打率一割だとしても一万五千枚は撮ったことになります。もう少し打率が良かったとしても一万枚以上は撮ったことになるでしょう。来年はもう少し露出にこだわって行きたいと思っています。

あ、最後になりましたが九年間務めた会社を辞めて転職しました。

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FTRメーターについて

メーターの専門店から返事が来ました。

おそらく、針軸の軸受けが大摩耗していて、針のセンタがずれるのに合わせて針が振れています。

なるほど、それであれば特定の速度でだけこの症状が起きるというのも理解できます。

しかし、問題なのは修理代金。類似のケースでオーバーホールして2万円超えとのこと。むー。新品の高機能メーターが買える。高機能メーターにすれば、時計も外気温も分かるし、トリップも二つ付いてくる。良いことづくめなのだが、オリジナルのデザインが崩れてしまうのはどうしたものか。

ああ、悩ましい(そして楽しい)。

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「氷の花火〜山口小夜子」の感想

 山口小夜子に魅せられた人々が、自分の中の小夜子という偶像を追い求める映画。そしてその追跡は、映画の最後に紹介される山口小夜子自身の発言で否定される。一言一句覚えてはいないが、モデルということは歩くということ。歩くと躓いたりして新しいものに気づく。新しい人に出会ったりする。だから、歩き続けることはとても大切なこと。ということを山口小夜子は言っている。
 つまり、在りし日の小夜子を求めて、鼻筋がよく似たモデル(松島花)に最大限の小夜子メイクを施し、小夜子カツラを被せて、小夜子の動きをさせたところで、それはランウェイを歩いていることにはならないのだ。それはどうあがいてもイミテーションにしかならないし、本物を超えることはできない。監督を含め、公式サイトに掲載されている人物は全員、小夜子というランウェイを進んでいない。映画に出てくるが公式サイトに載っていない勅使川原三郎だけは、小夜子という偶像に囚われていない。勅使川原は、この映画の本質が懐古趣味の自己満足にすぎないのだと気付いていたから、公式サイトやパンフレットへの自分の名前の掲載を拒んだのではないか。そう邪推せざるをえない出来栄えだった。これでは、山口小夜子がかわいそうだ。
 特に腹立たしいのは丸山敬太がイミテーションの山口小夜子に涙するシーン。山本寛斎と違ってかりそめにも今現在活躍する、毎年新しいものを生み出さなければならないというファッションデザイナーであると、いやしくも自認するのであれば、こういう遊びで涙するような姿はクリエイターとして他人に見せてはならないのではないか。
 山口小夜子が亡くなった直後で、小夜子ロスト症候群から逃れられないのなら仕方のないことかもしれないが、それであったとしても少なくとも仲間内で留めておき映画として公開するような行為ではないだろう。いわんや今は山口小夜子が亡くなってから5年以上経っているのだ。いつまで失われた偶像にしがみつくのだろうか。映像の中の山口小夜子は常に美を限界まで追い求め具現化し、新たな表現を求めた存在だったので、偶像にしがみつく出演者の醜態とのコントラストがさらに際立つ。
 この想いは、山口小夜子展でも感じた。会場の最後の大広間で小夜子マヌカンに悩殺されてゾンビのようにさまよっていたのは一般の非クリエイターであったので、ここは懐古趣味に浸る場所なのだなと割り切ることができた。しかし、同じ事をクリエイターが、しかもファッションデザイナーが公の場でやることは許されない。

 また、映画としても技術的な問題が多い。インタビュイーの顔にピントがあっておらず、背景にピントがあっているシーンが多い。また、効果音がひび割れている。素人が撮ったドキュメンタリーならともかく、美しい作品に関わってきた人が監督したとは信じられない品質。おそらく、山口小夜子と違って映画を数多く見たりしたことが無いのだろう。そういえばファッション通信も、よくピントが外れていたなと思い出した。

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文化と国境と戦争

「チベットと日本の現代史 もう一つの戦後70年」西川一三、野元甚蔵さんが生き抜いた時代を考える(江本嘉伸) に参加してきました。そこで聞いた話を忘れないうちに書き留めておこうと思います。

いろいろな意味で、今も昔もチベットに入る事は難しい事です。最初の日本人がチベットを訪れた1900年代前半はそもそもチベットが鎖国しており外国人の入国が不可能でした。またその鎖国は地理的特性を活かして実現されていたため、チベットへ向かう手段は現地の動物に乗るか歩くかの二つしかなかったようです。現在のチベットは中国の支配下にあるため、外国人がチベットを訪れる為には入域許可証が必要であると聞いています。今も昔も、チベットを訪れる事の難しさに政治的理由はついて回るようです。今回のお話は1939年から1950年にかけてチベットを訪れた野元甚蔵と西川一三のお話でしたが、彼らはモンゴル人を装ってチベットに入りました。1900年にチベット国境を越えた河口慧海は漢民族を装っていました。日本人であることが発覚すると処刑されかねない時代であったことと、野元と西川のチベットに向かう目的が、外務省からの要請によるチベットの文化や風俗の調査であったためです。

ここで興味深いのは、文化圏と人間の関係性です。例えば、異文化の調査を行っているうちに自分が調査対象の文化の一員となってしまう可能性はフィールドワークに常について回ります。素性を隠す必要がなくともこのような可能性があるわけですから、いったんモンゴル人や漢民族になりきった上でチベットに入るということの困難さは容易に想像できると思います。今回のお話で言えば、野元と西川は日本人である事を辞めモンゴル人になりきり、そこからチベットに滞在しチベットの文化や風俗を調査する事が指示されています。そこでモンゴル人からチベット人に変わってしまっては調査になりませんから、辞めてしまった日本人の目でチベット人を見なければならないのです。しかも言葉はモンゴル人で。

このことをふまえると今日の江本さんの発表において彼らが
「日本語が出ずモンゴル語で話し続けた」
ということは想像に難くありません。また2001年のフォーラムにおいて西川がチベットの歌をチベット人と寸分違わぬ歌い方で歌う様子を見る事は、特別な意味があります。その西川はチベット東部に潜伏している際に
「頭が割れそうな雨」
に毎晩襲われたそうです。さらに毎日盗賊が出てきて一番大切なモンゴルから持ってきた鉄鍋を盗られて、チベットで調達した土鍋は重い上に沸騰しないなどという経験を重ねた結果
「チベットは大嫌い」
と愛憎こもった調子で吐き捨てるように西川は発言しています。しかし、土産物や歌を嬉しそうに披露する西川と野元の様子を収めたビデオを観て私は、彼らが日本政府から依頼された調査を行う為にチベットに潜伏したにしては、明らかにチベットに惹かれていたように感じました。

今回の講演で江本さんは、彼らがチベットに行った意味をその当時の戦況や地政学から解釈する事はまったくなさりませんでした。ただ、彼らを追悼する気持ちでこの会を催した、と。しかし今日の話を聞いたり映像を観たのであれば観た者にも責任が発生するのだとおっしゃいました。つまり、チベットに直接行った西川と野元の話を直接聞いてきた江本さんのお話を直接聞いた我々が、今日観たことを後世に伝えるのだと言う事です。私の凡庸な理解ではこのようなブログを書く事しかできませんが、河口慧海や西川の本を読む事でチベットに行くという事を追体験することは非常に愉快な経験であることは間違いないです。先に述べたように政治的理由で入国が困難であり続けるチベットを、今日の講演の題名にあるとおり戦後70年である今追体験する事。その意味は国家の存在に必須な要素としての国境、もう一つの要素である国民が作り上げる文化、そしてそれらを破壊する戦争、この3つの組み合わせにあると感じました。そして皮肉な事に、戦争が要求した調査において国境を超え異文化に触れるという事が為されたこと。それが西川と野村が成し遂げた偉業なのではないかと考えています。

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石郷丘さん初登場動画(かも)

ホワイトベースの動画が本当に好きです。まだチャンネル登録者が8,000人ぐらいの時からほとんど全ての動画を見ています。ですので、YouTubeはホワイトベースの動画をとてもたくさん勧めてきます。勧められるがままに見直していた動画の中から、ちょっと気になるものを紹介します。という建前ですがほとんど自分の為のメモです。

ホワイトベースの物販を一気に引き受け、京都までカブで行く石郷丘さん、通称ゆう。もしかしてこれが動画初登場なのかな。もう一つ、自己紹介ぽく登場していた、多少発言もあった動画も存在したような気がするので、それも発掘したらリンクします。

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テーマを変更しました。

Googleウェブマスターから、モバイル最適化されてないという連絡が来ていました。
連絡事項は二つです。

  • タップ要素同士が近すぎます
  • コンテンツのサイズがビューポートに対応していません

要は、リンクやボタンがタップしずらく、横スクロールが必要な状態である、もっとざっくり言うとPC向けサイトだと言われているようです。

WordPressの純正テーマTwenty Twelveを使っていてAndroidでみてもそれなりに表示されているのですがそれでは駄目だということでしょう。特にデザインにこだわりもないので、さくっと最新テーマのTwenty Fifteenに換えました。
さて、どういう評価になることやら。ああ、前回直したupdatedが出てないとかいってまた怒られたらやだなぁ。