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「氷の花火〜山口小夜子」の感想

 山口小夜子に魅せられた人々が、自分の中の小夜子という偶像を追い求める映画。そしてその追跡は、映画の最後に紹介される山口小夜子自身の発言で否定される。一言一句覚えてはいないが、モデルということは歩くということ。歩くと躓いたりして新しいものに気づく。新しい人に出会ったりする。だから、歩き続けることはとても大切なこと。ということを山口小夜子は言っている。
 つまり、在りし日の小夜子を求めて、鼻筋がよく似たモデル(松島花)に最大限の小夜子メイクを施し、小夜子カツラを被せて、小夜子の動きをさせたところで、それはランウェイを歩いていることにはならないのだ。それはどうあがいてもイミテーションにしかならないし、本物を超えることはできない。監督を含め、公式サイトに掲載されている人物は全員、小夜子というランウェイを進んでいない。映画に出てくるが公式サイトに載っていない勅使川原三郎だけは、小夜子という偶像に囚われていない。勅使川原は、この映画の本質が懐古趣味の自己満足にすぎないのだと気付いていたから、公式サイトやパンフレットへの自分の名前の掲載を拒んだのではないか。そう邪推せざるをえない出来栄えだった。これでは、山口小夜子がかわいそうだ。
 特に腹立たしいのは丸山敬太がイミテーションの山口小夜子に涙するシーン。山本寛斎と違ってかりそめにも今現在活躍する、毎年新しいものを生み出さなければならないというファッションデザイナーであると、いやしくも自認するのであれば、こういう遊びで涙するような姿はクリエイターとして他人に見せてはならないのではないか。
 山口小夜子が亡くなった直後で、小夜子ロスト症候群から逃れられないのなら仕方のないことかもしれないが、それであったとしても少なくとも仲間内で留めておき映画として公開するような行為ではないだろう。いわんや今は山口小夜子が亡くなってから5年以上経っているのだ。いつまで失われた偶像にしがみつくのだろうか。映像の中の山口小夜子は常に美を限界まで追い求め具現化し、新たな表現を求めた存在だったので、偶像にしがみつく出演者の醜態とのコントラストがさらに際立つ。
 この想いは、山口小夜子展でも感じた。会場の最後の大広間で小夜子マヌカンに悩殺されてゾンビのようにさまよっていたのは一般の非クリエイターであったので、ここは懐古趣味に浸る場所なのだなと割り切ることができた。しかし、同じ事をクリエイターが、しかもファッションデザイナーが公の場でやることは許されない。

 また、映画としても技術的な問題が多い。インタビュイーの顔にピントがあっておらず、背景にピントがあっているシーンが多い。また、効果音がひび割れている。素人が撮ったドキュメンタリーならともかく、美しい作品に関わってきた人が監督したとは信じられない品質。おそらく、山口小夜子と違って映画を数多く見たりしたことが無いのだろう。そういえばファッション通信も、よくピントが外れていたなと思い出した。