「ジョーカー」の感想文への反論

映画「ジョーカー」の感想文で評判になっているものがあるが、あまりにも危険な内容だったので反論をしておくことにした。

その感想文とは槙野さやか氏による
「ほんとうはもっと与えられるべきだった」と無根拠に思いこむ人間の恐ろしさ  映画『ジョーカー』
である。

論に入る前に私の考え方を明らかにしておくが、私は暴力を肯定しない。銃はこの世から無くなるべきだと思っている。アーサーないしジョーカーが殺人をはじめとする数々の罪を犯したことは許されず、彼は法により裁かれ罰を受けるべきである。

さて、この感想文で著者は
1. アーサーは特に貧困を極めた者ではない。
2. アーサーは貧困だから立ち上がったのではなく、自分に与えられるべきものが与えられなかったから立ち上がった(感想文中の表現を引用すると「ジョーカーになった」)。
3. 結論として「アーサーみたいな人、増えてるもんね、なんかこう、無限の賞賛を求める系の人。ホアキン・フェニックスがアーサーを魅力的に演じすぎていて、まるで時代のヒーローみたいに見えて、よろしくないよ、あの映画はだから、私は支持できないよ」
と述べている。私は問いたい。立ち上がるのに理由がいるのか。「無限の賞賛を求める系の人」が立ち上がって何が悪いのか。

著者が述べているアーサーの人物像は映画と矛盾していない。アーサーが色々なものを切望していることも明らかである。白雪姫のように受動態であるという表現は、あれだけの事件を起こしている人物に対して的を得た表現なのか疑問であり、あえて言えば滑稽な描画であるとは思うが、アーサーが積極的に事態を改善しようとしないと言う意味では間違いではない。普通に起こる不運を受け、何もできなかった人物が「ジョーカーになった」ことを著者は徹底して批判する。まるで、普通の不運の人は黙って不運であり続けろ、と言わんばかりだ。立ち上がるのに状況や身分が限定されるという主張のように解釈できる。「無限の賞賛を求める」こと自体が許されないことのように述べられている。これらの記述は、著者の中に隠された選民主義がこの感想文に顔を覗かせてた片鱗であると、私は感じる。

著者はどのような立場の人物なら「ジョーカーになっ」て良いと考えるのか。極度の貧困状況に置かれて親から虐待の限りを尽くされなければならないのか。アーサーが「無限の賞賛を求める」ことを批判しているが、人がどのような考えを持つかは、基本的人権の中でももっとも重要な思想や言論の自由として絶対的に保証されていることを著者は理解していないのだろうか。

著者が述べているように、この映画でジョーカーは時代のヒーローとして描かれている。ジョーカーは倒され落とされ続けた最後の最後で、クラウンたちからの無限の賞賛の中で破壊されたパトカーの上に立ち上がる。これは、権力者による理不尽な仕打ち、例えば社会的支援を打ち切られること、自分たちの金がごく一部の企業や政治家に還流していること、禁止できるはずの銃を手にしてしまうことなどに対して民衆が立ち上がることを示している。最後のシーンを「与えられるべきものが与えられなかったから、周りのものをぶち殺してやったぜ。」としか理解できないのなら、なんと不幸なことだろう。そのような表面的理解しかできないからこそ、普通の貧者や無限の賞賛を求める人は立ち上がるべきでないというような感想文を書いてしまうのだろう。

この映画は、肥大化した自意識を制御できなくなった者が、同類を率いてテロリスト組織を作ったというものではない。現実世界において、これだけの悲劇が続くのに未だ銃を禁止することができない米国、人々が最低限の人権を享受して生活する最低限の権利すら与えない国々、その状況の中で絶望して生き続ける人々に団結して立ち上がる勇気を与えるのがこの映画の目的である。だから私は、この映画は素晴らしいと思う。