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ショック・ドクトリン

久しぶりに興奮する本に出会った。これまでに人間の本質に近づくことができたと感じた瞬間はいくつかあったが、この本はその瞬間をもう一つ増やしてくれるものだった。

この本は2006年から2007年ごろに記されたものを2011年に日本語に翻訳されて出版されたものである。今は2019年、この本が出版されてから10年以上経つが、この本の最後に述べられている市民の覚醒とフリードマン信者の衰退は限られており、ショック・ドクトリンはまだまだ有効であるように感じられる。それを一番端的に示すのは、トランプが米国の大統領であるという事実である。それについて論じた本も出ているので、次はこれを読みたい。

こうしている今も温暖化は進み、国家という枠組みを大きく超えた大惨事が起きつつある。フリードマン信者は次なる儲けの機会を虎視眈々と狙っている。私たちは、いかに衝撃的な事態が起きようと、いかに過激な表現に触れようと、常に冷静に目の前のこと以外のものを観察しなければならない。誰が何を決めようとしているのかを監視し続けなければならない。そして、私たちは立ち上がって声を上げなければいけない。衝撃で気を失っている場合ではないのである。過去にどのような衝撃がもたらされ、何が起きたのかを予め知ることで、衝撃に対する耐性を持つことができる。この本は、フリードマン信者の攻撃に対するワクチンのような存在である。

一つ思うのは、この本に対してフリードマン信者の反論はあったのだろうか、ということである。フリードマン信者が各国でしでかしてきた失敗の原因は、この本に書かれている通りなのだろうか。それとも別の原因があったのだろうか。それを検証することは困難だと思うが、だからと言って議論が不要だということではない。過去を知ることで同じ失敗を早期に見つけ、多様な主張を戦わせることで自分たちの進むべき道を選ぶことが必要なのだ。

この本を読んでいて、一つの映画を思い出していた。
「ザ・コーポレーション」
企業の行動を人間とみなして評価すると、法に従うこともせず感情もない、悪魔ですら逃げ出すような恐ろしい人物だということを示した映画であった。一人の人間でそこまで恐ろしい人物はなかなかいないだろう。そして通常の企業は、数人あるいは数十人の経営者で運営されている。つまり企業とは所詮は人の集団である。人間とは集団になると、悪魔ですら恐怖で逃げ出すような意思決定ができるものなのであろうか。集団になった時の人間というものが、次の自分の勉強対象になったような気がする。

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外交における暴力と非暴力、あるいは日本人のコミュニケーション方法について。

最近、中国が南シナ海を埋め立てて軍事施設を作って支配しようとしているいる、というニュースを良く聞きます(例えば中国軍の演習招待撤回を要求、「挑発目に余る」米上院委など)。南シナ海は日本にとって、資源輸送の重要な航路であり、正に喫緊の問題であるとニュースザップで長谷川幸氏が述べていました。

では日本は南シナ海を巡って中国と戦うべきなのでしょうか? あるいは日本が直接戦うことなく、米国の武力で南シナ海から中国を追い出すべきなのでしょうか? このような事態に対して以前は「外交上の努力」なる言葉を良く耳にしたのですが、最近は「集団的自衛権」ばかりです。武力以外の解決方法はないのでしょうか。例えば交渉することはできないのでしょうか。

交渉する為には、日本が中国に対して有効な外交上のカードを持っているのかどうかが問題となります。そういうカードを持っていない、持とうと努力してこなかったからこそ、このような事態を招いているのではないでしょうか。中国がやたらと好戦的であり野蛮な国であるからこのような事態を招いたというよりも、中国にとって不利になるようなカードを持っていない日本の足元を見ての行動だととらえることもできます。

ではなぜ、日本はそのような交渉のカードを獲得してこなかったのでしょうか? ここに日本人の特性があるような気がします。日本人同士の交渉は、お互いに空気を読み利害関係を調整していきます。実現不可能な選択肢を提示したり、これまでに積み上げてきた合意事項を全部ひっくり返して交渉を有利にもっていくようなことは行われません。しかしここに挙げた二つの交渉方法は、日本人以外が使う手法だと最近知りました。このような交渉術がこれから必要になっていくのではないでしょうか。

武装地帯で安全に過ごすには、丸腰で居ること。非武装で戦争を放棄することが国際社会で平和を実現する方法である。

このような意見もあると思います。私も戦争はしたくありません。しかし、ただ単に非暴力であるだけで物事は解決するのでしょうか。これまでの非暴力の活動が実を結んだ事例はいずれも、非暴力活動家が権力側に何度もしぶとく交渉に応じるように要求し、そこで交渉が行われてきたのだと思います。そしてそこには、ガンジーやキング牧師、ネルソン・マンデラなどの指導者の存在があります。翻って考えると、日本にそのような交渉術があるのでしょうか。その交渉を導く指導者が日本にいるのでしょうか。

ペンは剣よりも強しと言いますが、書く内容とそれを考える人がいなければならないと、最近強く感じています。