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2020年を振り返って

例年は一年分をまとめてブログに書いていましたが、今年はすでに上半期で一度まとめて書いてありますので夏以降の話を中心に今年の総括を書いてみようと思います。

バイク

サラリーマンを辞めて良かったと思えることは数多くありますが、その一つにバイクで移動できるようになったことがあります。2000年式FTR223の後部座席に、1999年のWIREDロゴ入りTIMBUK2を括り付け、夏の暑い時は塩飴をなめながら、冬はエンジンで指先を温めながら移動していました。電車の中でカサカサというコンビニ袋のイライラする音からも自由になり、何より赤の他人と接触するかもしれない状況から逃れることができたことで、いかに不快なことが日常に潜んでいたかを改めて知ることができました。FTR223で林道にいくこともしばらくないでしょうから、タイヤはオンロードのもの(WF-920)に変えました。炎が燃え上がるようなパターンなのですが、思ったより視覚的攻撃性は少なく、結構気に入っています。次はTT100GPにしようかと思いますが、「消しゴムタイヤ」と言われるほどにハイグリップだとお金の面でちょっと不安がありますね。

仕事

仕事については、まだ先手を打って行動できてはいません。どうしても目の前の仕事に時間を使ってしまうので、数年先を見据えた動きというものができていないのです。これについては、仲間がtoggl.comを教えてくれて、自分がどの仕事にどれぐらい時間を使っているかが可視化されて来たことで改善の兆しが見えてきつつあります。あと、夏に広告をだしてみたのですが、CTRは良いもののコンバージョンがゼロでした。まずはコンバージョンするサイトを作らないと、広告出しても仕事も仲間も獲得できません。来年はここに力を入れていこうと思います。

学習の時間も強制的に作らないとなりません。来年はこれまで定期的に情報収集していたAWSに加えて、最近のアプリについて学習していきます。

ボランティア

一人で会社をやっているとボランティアをやっている暇はなくなってしまいました。チベット支援活動は一時休業とさせていただきました。来年のフジロックも(もしフジロックが2021年に開催されれば、ですが)おそらく参加できないでしょう。

読書

電車移動がなくなり読書時間は減ってしまいました。今年一冊おすすめするとしたら、「嘘と拡散の世紀」です。我々が得た「自由にいつでも誰とでも、どんなトピックでも会話することができる」という技術を逆手に取った嘘が拡散していく様が克明に記されています。あなたが読んでいる情報、本当だと事実確認されたものですか? 一周回って、伝統的な媒体である新聞の有用性を感じた2020年でもありました。

映像・写真・アート

今年は仕事とコロナで映画や美術館やイベントにはほぼ行っていません。Netflixも、集中してみる必要があるもの(House Of Cardsなど)は進められていません。家事をしながらみたものの中で印象に残っているのは、The Pharmacist(邦題は「ザ・ファーマシスト:オピオイド危機の真相に迫る」)です。予告編の仕上がりはイマイチですが、麻薬を買おうとして殺された息子をもつ薬剤師が、犯人の身元を知っている目撃者を探し出すところから物語は始まります。警察でさえ見つけられなかった目撃者を探し出し、証人として証言するように説得する、その行動力が薬剤師の力です。その後、薬剤師として薬を処方していると、オピオイドを大量に処方している医者を知り、それが原因で地域の子供たちがどんどんオピオイド中毒になり、さらに死んでいることに薬剤師は気付きます。そこから、持ち前の行動力を発揮して医者を廃業に追い込み、さらに製薬会社の罪まで問いただしていくというものです。一人の薬剤師が、強力な販売網と販促費を持ちロビー活動を行なっている巨大製薬会社に挑んでいくところに、勇気づけられました。いままで「自分には無理なんじゃないか」とおもって諦めていたことが、実はできるんじゃないかという気がしてきました。

音楽

今年もMama Ruの音楽を浴びるように聴いてきましたが、2020年を象徴する曲といえば、Rainychを紹介する必要があるでしょう。

ジェーン・スーさんのラジオは音楽もかなりよくて、選曲を行なっている方が登場して音楽を紹介するコーナーがあるのです。そこでこの曲を教えてもらいました。日本語はときどきおかしなところがあるのですが、とにかく声が好きです。

来年の抱負

まずは仕事を安定させることが最優先で、そのためには複数の案件を複数のメンバーで担当できるようにすることが必要だと考えています。とりあえず第一四半期に予定されている大型のリニューアル案件を事故なくやり遂げつつ、仲間と仕事を同時に探していこうと考えています。

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中国製品をなるべく買わない生活

チベット支援者の一人として、中国製の製品はなるべく買わないようにしています。とはいっても、これだけ中国製のものが世の中に溢れていると、中国製以外のものを見つけるのは至難の技。そこで、中国製以外の製品を見つけたらご紹介していこうと思います。

まずはキャンプ用品。商品説明文にわけのわからない日本語が散見される分野ですが、米国製ロープと日本製ペグを見つけました。どちらも実際に買ってみて、ちゃんとした品質のものが届きました。ご参考になれば幸いです。

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仏具「マニ車」の写真

うちにあるマニ車の写真が発掘された記念に。

チベット人に聞いたところ、このマニ車に彫ってあるのはサンスクリットで「オンマニペメフム」だそうです。

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2016年お世話になりました。

今年も一年、あっという間でした。しかし、今年は忘れられない出来事がいくつもあり、その中で最も重要だったことからお伝えしようと思います。

non-derogable な権利。

チベットの支援活動の一環で、政府に提出する文書の英日訳を作成しました。そこで、この言葉に出会ったのです。見たことも聞いたこともないので辞書で調べると、そもそもderogableという単語は存在していないのでした。derogateは存在していたので、そこから類推するに「制限されない権利」というのが直訳です。しかし、原文は

non-derogable rights, such as freedom from torture.

となっていて、そもそも中国がチベット人の人権を侵害しているという主張の一部で使われています。そこを「拷問されない自由などの制限されない権利」としてしまうと、原文の強い口調が柔らかくなってしまいます。また、パッと読んで意味が通じることも期待できない訳となってしまいます。この訳以外に何かうまい訳語はないかと色々と探し回りましたが、Oxfordの辞書にも載っていない言葉が日本で普通に通用しているわけもなく、行き詰まってしまいました。そもそもこの言葉を最初に使い出したのは誰なのかと調べてみると、国連の資料に定義がありました。簡単に紹介しますと、「国家の存続のような公的な危機であっても、制限されることは決して許されない人権」であり「生きる権利」や「拷問の禁止」や「同意のない医療的あるいは科学的実験」や「思考および良心および信仰の自由」などが例として挙げられています。

これを翻訳していたのは春頃で、トランプ氏がいよいよ共和党の候補者となるのが濃厚になってきた頃でした。人間として絶対に侵害されないこれらの権利について彼が根本的に無知であることに、私は深く失望しました。国連の資料にあるように、例え国家の存亡の危機においても、誰かを拷問したり殺したりすることは許されないのです。しかし米国は裁判も行わず容疑者を次々と射殺しています。アルカイーダのウサーマ・ビン・ラーディンも、オバマ大統領によって裁判にかけられることなく殺されました。911のような歴史を変える重大事件の主犯格を裁判にかけて事件の背景を明らかにすることは極めて重要なことではないのでしょうか。ノーベル平和賞受賞者が率いてもこの有様ですから、トランプ氏が率いる米国はなにをやらかすのか、言いようのない不安を覚えました。

さてこの訳語ですが、友人を頼って専門家の意見も聞くことができたのですが「まだ日本の訳語が確立しておらず、ノン・デロゲーブルとカタカナを使っている」とのことでした。仕方ないので必死に考えた結果「絶対不可侵な権利」としました。この文書の冒頭に使われたこの言葉を含む一段落を紹介します。

中国は、拷問を受けない権利などの絶対不可侵な権利はもとより経済的、文化的、社会的な権利にも及ぶ厳しいUPRの勧告に従うと約束した。しかしながらUPRの2回目以来、中国は基本的人権と理由のない拘留や偽の裁判、投獄、そして拷問に直面している人権活動家への攻撃を強める一方である。

この言葉に触れたことにより、私の人権に対する考え方は一歩前進したと思います。これまでは、人権とは何か、この考えはどのように発生したのか、などの基本的なことを学ぶばかりで人権があることによりどのような良いことがあるのか、などは説明できないでいました。しかし今ははっきりと主張できます。人権が保障される社会では、その社会はより進化するのです。どのような力が存在しようとも自分の意見を自由に持つことができ、発言することができる、それこそが議論を通してお互いを高めあうことのできる社会ではないでしょうか。

レンズ沼は意外と浅かった。

昨年EOS 8000Dを導入し今年はいわゆる大三元のうち望遠と標準を揃えました。個人的な趣味で魚眼レンズも買いました。さすがにこれらのレンズの描写はすばらしく、パッと撮っただけでもこんな写真が撮れます。

良いレンズは絵が素晴らしい、と思っていたのですがキットレンズもなかなかだということがわかりました。次の写真は、18-135mmという高倍率ズームレンズで撮影したものです。

全体的な質感は大三元には及びませんが、帽子やおでこが太陽光に照らされている感じ、中国大使館のポストの冷たさがよく出ていると思います。この一枚は、私にとって極めて重要な写真です。「中国の圧政には絶対に屈しない」というメッセージを中国政府に直接届けている瞬間なのですから。写真に一番重要なのは、真剣さだということが分かりました。レンズ沼などにはまっている場合ではありません。一枚一枚を真剣に撮れば、入門機とキットレンズでも十分に満足出来る写真にすることができます。

大切な場所を失うということ。

今年は残念なこともありました。大切な大切な喫茶店が閉店してしまったのです。このことについてピーター・バラカンさんのラジオに投稿し、採用されました。そして、私がJoni Mitchellの”if”リクエストしたということが喫茶店のオーナーに伝わり、間接的ながら私の気持ちを伝えることができました。直接、目を見てお別れを言いたかったのですが、ラジオの魔法のおかげでオーナーに私の気持ちがより強く伝わったような気がしています。ピーター・バラカンさんのラジオがなくならないようにしなくては。

Mac買い替え。

2009年より7年間使ったMacBook(Late 2008, Aluminum)を知人に譲り、iMac 21 inch(Retina 4K, Late 2015)に買い替えました。PowerBook Duo210以降、すべてのMacにノート型を選んできたのですが、iPhoneとクラウドでほぼすべてのことができる時代になり、Macを持ち歩くことも無くなったため性能と価格で有利なデスクトップ型にしました。ちょっと前だったら、頑固にノート型を選んでいたかと思いますが、歳をとって無意味な主義を通すことの無意味さに気づくことができるほどには成長したようです。

組織という化け物。

秋にやっていた仕事で、IT担当に正社員がまったく起用されていないクライアントがいました。正社員がいないので、システム担当者は自分に指示された仕事しかしません。その結果、システム全体を見渡した優先順位付けを行うことができていませんでした。本来であれば既存のシステムの安定稼働を先行させるべきなのに次期システム更改をすすめており、案の定既存のシステムにおいて大事故が発生してしまいました。それとともに私が受注していた仕事はキャンセルとなってしまいました。私の仕事はともかく、既存のシステムに事故が起きる危険性があるとRFPにも書いてありながらそれを優先して対処しないという結論に至った組織というのは恐ろしいものだと思いました。

原爆の図。

丸木美術館に行ってきました。

韓国からのお客様が多数来ていて、写真を撮りまくっていました。ぜひ、SNSでシェアしまくって頂きたいものです、原爆の悲惨さを。

趣味。

バイクは、FTR223が購入してから3年経ち、自賠責を更新しました。リアタイヤがそろそろ寿命なので、TT100GPにするかK180のままにするか悩んでいます。K1200RSは前後タイヤを交換しました。東京から長野の山奥まで1日で500kmを往復したりして、疲れながらも楽しい思い出になりました。

バレエは、伴奏の酷さに辟易した一年だったと思います。バレエ101という演目が、バレエの基本的な型と欧米での入門編を示す101とをかけているあたりが素敵でした。シムキンも最高でした。

ものすごく美味しいレストランがもう一つ見つかり、お金と胃袋がマジで足りません。

それではみなさま、2017年も健康で平和な一年とならんことを。

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映画 “Nowhere to call home” の感想

この映画を観終わった後、私が最初に思った言葉は「都合の悪いことばかりな映画だ」でした。チベット人にとっても、漢民族にとっても、中国政府にとっても、チベット・サポーターにとっても、この映画が示す現状は都合の悪いことで満ちています。チベット問題を全て解決する事などできるのだろうか、と考えざるを得ない映画です。

これ以降、ネタバレを含む感想を述べます。また、登場人物の正確な氏名表記が分かりませんので、公式サイトに掲載されているストーリー紹介のページの欧文表記に合わせて記載します。主人公はZantaという女性でありYang Qingという名の息子を連れて、故郷から逃げ出し北京で露天商で食いつないでいます。ZantaとYang QingのIDは義理の父に奪われています。Zantaは北京ではチベット人である事でひどい目にあいIDがないことで生活が困難な状況にあります。故郷では女性である事で息子の養育権を奪われそうになっています。つまり、民族問題と女性問題の双方に苦しむ主人公を描いたドキュメンタリーという構成になっています。

チベット・サポーターである私の視点から見ると、前半部は想像に難くない事実でした。チベット人であるというだけで家も借りれず、借りたとしても警察に踏み込まれ、息子に教育を受けさせることもできない。中国政府の発行するIDがないので不法移民扱いされる。Zantaがチベット人だと分かった漢民族が彼女を見る目は、誰がどう観ても彼女を蔑むものである。Zantaはそのひどい仕打ちの数々について神の不在、あるいは神の彼女に与えた仕打ちであると嘆き悲しんでいます。ここで、チベット人なのにカルマという概念を述べないところが、すでに主人公が漢民族の文化圏に適合し始めていることを示しています。このことは主人公の母と比較すると明らかです。Zantaがここまでひどいカルマを背負っているのなら殺してしまえば良かった(おそらく堕胎を意味しています)と発言しているからです。漢民族に国家を奪われるのみならず文化や個人の考え方や発言までが漢民族の影響を受けている、それはくり返し指摘されてきた事です。そしてチベット人がそれに対抗し得るのは、彼らが仏教徒であり仏教の考え方で行動しているが故であると考えられていました。しかし、この映画に描かれている北京にいるチベット人は、そのような状態ではないと示されています。漢民族の文化圏にいるチベット人は、チベット人ではなくなりかけているのではないかという疑問を持たざるを得ません。漢民族の侵略により分断されたチベット人は、チベット人であり続ける事が困難になってきているのです。

そしてZantaが息子のYang Qingを連れて旧正月に実家に帰る時、その家あるいは地方では女性に価値はないとの証言が紹介されます。また、Yang Qingが男子であるが故に義理の父にYang Qingを渡さねばならないという状況に陥ります。これはチベット圏に詳しい人からすると到底理解できない、あるいは納得がいかないことです。河口慧海の「チベット旅行記」にも記載がありますが、チベット人の社会で女性は男性と同等に、あるいは男性よりも決定権を持つ存在として伝えられてきました。この事は上映会に参加していた複数のチベット人および日本人の中でも最もチベットをよく知る方の一人から強く「これはこの家族だけの話だ」と指摘を受けていました。ジャーナリストが陥る罠、つまり自分が取材した事象が広く一般の基準であると誤解してしまう過ちをこの映画は犯しています。

この映画の監督は、Yang Qingに教育を受けさせる為に義理の父が署名すれば効力を発揮する同意書を弁護士の指導を受け作成します。同意書の内容は、おそらくYang Qingの保護養育者をZantaとするということだと思われます。義理の父は監督や主人公の予想に反し、同意書に署名しました。おそらく欧米人である監督が介入した事により義理の父がこれまでのように強権を振りかざすことが出来なくなったのでしょう。これをきっかけにZantaはYang Qingを学校に通わせる事ができるようになりました。そして、Zantaは監督の紹介で百貨店の催事コーナーでチベット民族のアクセサリを売ることが出来るようになります。北京で着実に仕事をしていくZantaは、北京は自由で故郷は不自由だと述べます。しかし、彼女にとって北京は故郷ではなく、また実家に戻ることもできない状況になりました。これがこの映画のタイトルであるNowhare to call home、直訳すると「この世に家と呼べる場所はない」ということを表しています。

この映画は中国政府の関係者や漢民族の学校で上映する事に成功し、好評を博したそうです。学校での上映後のインタビューに答えた学生が「これまで物売りの事を邪魔だと思っていたが彼女のような身上であったとは初めて知った。これまでの自分の行為を恥じて彼女達に謝りたい。」という主旨の感想を語っていました。つまり、漢民族にとってこれはチベット人の物語ではなく貧しい移民の物語だと受け取られているのです。漢民族は、彼らが行ってきた侵略という歴史的事実を理解していない事が浮き彫りになっています。また、北米でこの映画を上映した時にはメキシコ人から共感を得ることができたそうです。これらのインタビューや反響が特典映像などで流通するようになると、現在のチベット問題の根源が中国政府による独立国の侵略により始まったという歴史的事実が無視されてしまい、単に仕事を求めて貧しい地域から富める地域に移動してきた移民の問題として扱われてしまう可能性があります。

また中国政府からすると、「男尊女卑が依然としてはびこっているチベットを開放し、それで一人の女性が北京で自由に暮らす事ができている」という物語は彼らの行為を正当化することを利するでしょう。つまりこの映画は先に述べた個別の問題を一般化するという過ちによって中国政府にとって有利な内容になっているという問題を新たに作ってしまっています。しかし、中国政府にとってチベット人はやっかいな存在であることが映画の前半で何度も暴露されています。例えば警察が主人公を家から追い出す時の台詞が中国政府のチベット人に対する考え方を如実に示しています。「我々は中国人という一つの民族だ。」これに対しZantaは激怒し「私はチベット人だ。チベット人を侮辱するな。」と答えます。元々独立していた国家を武力で侵略したのですから、警察の述べる理屈が主人公に通用するはずもありません。しかし悲しい事にZantaは「同じ一つの中国人と言うなら、なぜ漢民族には部屋を貸してチベット人には部屋を貸さないのか」と理詰めで警察や家主を追いつめることができないのです。中国政府にとってチベット問題が制御不能の事態に陥っており、この問題を平和に解決する事が不可能な状態にある事が示されています。またチベット人が中国政府の圧政に対し、チベット人として統一されておりかつ有効な反論を持つことの難しさも露呈しています。余談になりますが、別の映像で漢民族の活動家がチベット人の取りうる選択肢を述べている様子と、Zantaの感情的な対応の対比が強烈な印象となって私の記憶に刻まれました。

この映画が主張している問題点を私なりにまとめますと、チベット人はチベット人であり続ける事が困難な状況になっており、かつ中国政府に対して有効な反論をチベット人全員が主張することができていない。中国政府はチベット問題を封じ込めようとしているがチベット人を止めることができない。漢民族は彼らが行ってきた歴史的事実を理解していない。そして人権意識が希薄である。そしてこの映画自体の問題点は、チベット社会が男尊女卑であるとしている点、そして監督自身がチベット問題を移民問題と見なしていると思われる点です。

さて、最後にチベット・サポーターにとっての問題点を論じます。まず、チベット・サポーターがこの映画の監督のようにチベット人を支援できるでしょうか。監督が行ったように中国各地にいるチベット人が生活できるように仕事を与え、彼らの子孫に教育を与える調整を行うことが出来るでしょうか。そしてその教育とは、漢民族の施す教育で本当に良いのでしょうか。ほとんどのチベット・サポーターはチベット問題を広く知ってもらう活動を中心に行っています。そして中国政府に抗議を続けています。しかしそれで十分なのでしょうか。チベット本土のチベット人、中国各地のチベット人、ダラムサラのチベット人、世界各国に散らばっていったチベット人それぞれに最適な支援を我々は行うことができているのでしょうか。この映画自体に問題点はありますが、それでも我々チベット・サポーターは現時点でチベット人が直面している問題点をこの映画のように広く伝え、そして個別に彼らの実家に訪れてまで解決することができているでしょうか。この映画を観て私が強く感じた事は、チベット・サポーターが個別のチベット人をより支援すべきなのではないかという事です。そしてこのような映画ができたとき、その映画を広める事も重要ですが、その映画自体の問題点を冷静に指摘し続ける事も重要だと考えます。チベットは男尊女卑の世界ではないこと。ダライ・ラマ法王猊下が宗教と政治の両方を司る旧態依然とした政治制度を漫然と続けているのではなく、民主的な選挙で選ばれた議員により構成されている現代的な政府組織に変わっていることを世界に伝えられているでしょうか。チベット・サポーターとして、現在の活動を続けているだけでは駄目だと強く感じました。