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2020年を振り返って

例年は一年分をまとめてブログに書いていましたが、今年はすでに上半期で一度まとめて書いてありますので夏以降の話を中心に今年の総括を書いてみようと思います。

バイク

サラリーマンを辞めて良かったと思えることは数多くありますが、その一つにバイクで移動できるようになったことがあります。2000年式FTR223の後部座席に、1999年のWIREDロゴ入りTIMBUK2を括り付け、夏の暑い時は塩飴をなめながら、冬はエンジンで指先を温めながら移動していました。電車の中でカサカサというコンビニ袋のイライラする音からも自由になり、何より赤の他人と接触するかもしれない状況から逃れることができたことで、いかに不快なことが日常に潜んでいたかを改めて知ることができました。FTR223で林道にいくこともしばらくないでしょうから、タイヤはオンロードのもの(WF-920)に変えました。炎が燃え上がるようなパターンなのですが、思ったより視覚的攻撃性は少なく、結構気に入っています。次はTT100GPにしようかと思いますが、「消しゴムタイヤ」と言われるほどにハイグリップだとお金の面でちょっと不安がありますね。

仕事

仕事については、まだ先手を打って行動できてはいません。どうしても目の前の仕事に時間を使ってしまうので、数年先を見据えた動きというものができていないのです。これについては、仲間がtoggl.comを教えてくれて、自分がどの仕事にどれぐらい時間を使っているかが可視化されて来たことで改善の兆しが見えてきつつあります。あと、夏に広告をだしてみたのですが、CTRは良いもののコンバージョンがゼロでした。まずはコンバージョンするサイトを作らないと、広告出しても仕事も仲間も獲得できません。来年はここに力を入れていこうと思います。

学習の時間も強制的に作らないとなりません。来年はこれまで定期的に情報収集していたAWSに加えて、最近のアプリについて学習していきます。

ボランティア

一人で会社をやっているとボランティアをやっている暇はなくなってしまいました。チベット支援活動は一時休業とさせていただきました。来年のフジロックも(もしフジロックが2021年に開催されれば、ですが)おそらく参加できないでしょう。

読書

電車移動がなくなり読書時間は減ってしまいました。今年一冊おすすめするとしたら、「嘘と拡散の世紀」です。我々が得た「自由にいつでも誰とでも、どんなトピックでも会話することができる」という技術を逆手に取った嘘が拡散していく様が克明に記されています。あなたが読んでいる情報、本当だと事実確認されたものですか? 一周回って、伝統的な媒体である新聞の有用性を感じた2020年でもありました。

映像・写真・アート

今年は仕事とコロナで映画や美術館やイベントにはほぼ行っていません。Netflixも、集中してみる必要があるもの(House Of Cardsなど)は進められていません。家事をしながらみたものの中で印象に残っているのは、The Pharmacist(邦題は「ザ・ファーマシスト:オピオイド危機の真相に迫る」)です。予告編の仕上がりはイマイチですが、麻薬を買おうとして殺された息子をもつ薬剤師が、犯人の身元を知っている目撃者を探し出すところから物語は始まります。警察でさえ見つけられなかった目撃者を探し出し、証人として証言するように説得する、その行動力が薬剤師の力です。その後、薬剤師として薬を処方していると、オピオイドを大量に処方している医者を知り、それが原因で地域の子供たちがどんどんオピオイド中毒になり、さらに死んでいることに薬剤師は気付きます。そこから、持ち前の行動力を発揮して医者を廃業に追い込み、さらに製薬会社の罪まで問いただしていくというものです。一人の薬剤師が、強力な販売網と販促費を持ちロビー活動を行なっている巨大製薬会社に挑んでいくところに、勇気づけられました。いままで「自分には無理なんじゃないか」とおもって諦めていたことが、実はできるんじゃないかという気がしてきました。

音楽

今年もMama Ruの音楽を浴びるように聴いてきましたが、2020年を象徴する曲といえば、Rainychを紹介する必要があるでしょう。

ジェーン・スーさんのラジオは音楽もかなりよくて、選曲を行なっている方が登場して音楽を紹介するコーナーがあるのです。そこでこの曲を教えてもらいました。日本語はときどきおかしなところがあるのですが、とにかく声が好きです。

来年の抱負

まずは仕事を安定させることが最優先で、そのためには複数の案件を複数のメンバーで担当できるようにすることが必要だと考えています。とりあえず第一四半期に予定されている大型のリニューアル案件を事故なくやり遂げつつ、仲間と仕事を同時に探していこうと考えています。

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バイク

ワコーズ 4CT-S 10W-50 投入後50km

愛車FTR223のオイルの話の続きです。先日のelfで1300キロほど走ったため、オイル交換しました。メーカー指定の交換距離はもっと長いのですが、2000km前あるいは半年に一度交換するようにしています。

さて、elfで問題だったギア、特にニュートラルの入り具合ですが、如実に改善されました。ローに入れるときの衝撃も少なくなり、5に入れるときの引っかかる感じも少なくなり、全般に滑らかになりました。また、ニュートラルについても、プロステージS時代のように足の感覚で操作してすぐに入るように戻りました。ただし、4CT-Sが0.7Lぐらいしかはいらなかったため、エンジンオイルの中にまだelfが三割ぐらい残っているので、時々入りづらい感じです。

ギア以外ですと、エンジンノイズは少なくなり、アイドリング時に車両が前後にリズミカルに揺れるようになりました。プロステージ時代もこんな事は無かったので、4CT-Sが10W-50という固さなのにも関わらず、エンジンが回転するときの抵抗は少ないということかもしれません。アイドリングも少しあがりました。

エンジンの始動性は、さほど変わりありません。夏でも数日乗ってないと、チョークを半分引かないとかからなくなりました。いつか、圧縮比を測ってみたいと思います。吹け上がりは、そういうの気にするバイクじゃないので、気にしてません。

思うに、elfは現代のエンジンに合わせているんでしょう。2000年製(つまり設計は1980年代)のエンジンと相性が悪くても、まぁ、仕方がないのかもしれません。抜いたelfのオイルはかなり汚れていたので、オイルとしての性能は悪くなかったのだろうと思います。

次は冬にホンダ純正のG3 10W-30か、MOTUL 5100 4T 10W-30にしようかな!

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バイク

elf MOTO 4 TECH 10W-50

FTR223(2000年式)に、この四月にelfのMOTO 4 TECHの10W-50を入れてみた。これまで通年ワコーズのプロステージSの10W-40でなんにも問題は起きていなかったが、コロナの影響で真夏の昼間にバイクで顧客のところに行くことを考えると、もう一段硬いオイルにしたかったからだ(これまで夏は夜にしか走ってなかった)。また、FTRも23,000キロを超え、ゆっくり運転しているとは言えダメージも蓄積してくる頃だろうから、オイルも保護力の高いものにした方が良いだろうと思ったのだった。elfに載っているチャートを見て、ストリート向けより一段レース向けでエンジン保護性能の高いオイルであるMOTO 4 TECHに決定。1Lで2,052円。

その後、九月までの五ヶ月間で1,284キロ走行した。その結果、二度とelfのオイルは入れない、と感じた。

まず、入れた直後からギアがスムースに入らない。FTRのエンジンは223しかないのに、1600のアメリカンみたいにシフト時の音が大きい。ニュートラルから1速に入れるときにパッコーンと鳴り響く。その後のシフトアップも同様。10W-50ってこんなに硬いの? と思いながら、きっと油膜が厚くエンジン保護になっているのだろうと思うようにしていた。しかし、八月に入り日中の最高気温が35度を超え出した頃にシフトフィーリングが急に柔らかくなり、さらにニュートラルに入りにくくなった。まだ数百キロしか走っていない試乗車と同じく、踏めど上げど1と2の間を行ったり来たりしてニュートラルに入らない。プロステージSを入れていた頃は、足に伝わる感覚でニュートラルに入ったことが確実に分かったので、ニュートラルランプを見る必要がないほどシフトは正確であった。それがelfを入れた今では、信号で止まるたびにニュートラルランプを確認しながらちまちまとギアを動かす必要がある。

そもそもプロステージSは、たかだか1,300キロでこんなにフィーリングが変わることはない。elfは昔からのオイルメーカーなので、プロステージSより高い値段で耐久性重視のオイルでこんなひどいことになるとは思いもよらなかった。ただし、燃費は26km/L前後で変わっていない。

もしかしたら、オイルとは別の何かの原因により、FTRのエンジンが不調になったのかもしれない。これを切り分けるにはプロステージSに戻す必要がある。だが、FTRのエンジンオイル量は1L、交換時は0.8Lが規定量である。つまり2割のオイルは残るわけだ。となると、elfのオイルがなくなるまで2回はオイルを交換しないと安心できない。FTRにかわいそうな思いをさせてしまったので高級なオイルを入れたいことと、同じ硬さの10W-50で絶対に間違いのないもの、かつ短期間で交換するので(冬にはプロステージSの10W-40かウルトラG3の10W-30にする予定)、多少はレスポンス重視でもよい。というわけで、4CT-Sにした。

さて、4CT-Sでどう変わるか。elfはどれだけ汚れているのか(あるいは汚れていないのか)。楽しみである。最後に、同じくelfにあまりいい印象を持っていない方のYouTubeを紹介しておく。

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2020年上半期を振り返って。

 たぶん、このブログを書くことができているという事実が、これまでのサラリーマン生活と大きく異なることだとおもう。これまでは、与えられた仕事を処理し、全く意味のない政治闘争に巻き込まれたり、やる意味が解らない製品に携わってきた。そのため、自分のやってきたことを振り返る気にならなかった。今は違う。自分で選んで、自分でやろうと思った仕事をやっているので、精神的に余裕もあるし、なにより半年単位で自分のことを記して後から振り返ることに意味があると感じている。

 しかしながら、売り上げを継続的に立てていくのは大変だ。こちらの希望金額が通るのは、今までのコネで紹介された仕事のみだ。いや、コネですら国内最大手SIerのPMと同じ単価を出すのを渋られるのが現実だ。このことについて「この人にお金を出せば、それ以上の利益が上がると信じてもらえる説得材料が必要だ」と助言を受けたが、その説得材料はまだ集められていない。一つ考えたのは、英語ができるPMというのは珍しいと思うので(それこそ外資系コンサルティング・ファームにしかいない人材だ)、その需要がないかどうかを検索広告を出すことで確認してみようかと思っている。そして、これからコロナ不況だ、国内市場のプロジェクト・マネジメントだけ狙っていては食っていけないかもしれない。そう思うと、しばらく放置していた英語の学習と会話の練習を再開せねばならない。

 こんなことを考えられるようになるのも、独立して半年、最初のインフラ移行を成功させたことで余裕がうまれたからである。一人で仕事をして最初の一週間は「一人でやっていくのなんて無理無理」と思っていたし、今もその気持ちはあるが、より正確に書けば一人でやっていくのが無理なのではなく、一人でやっていくことで経営や人集めや営業や学習などにまで手が回らず、ジリ貧になっていくことが見えているからである。特に自分のプロジェクト管理能力を他の人に伝授するためには、自分の目の前の仕事ばかりやっていてはダメなのである。とりあえず食えるだけのキャッシュを集めて、マネジメントに興味があるセンスの良い技術者を集めないと話が始まらない。せっかく複数の人が集まれる会社という箱を用意したのだから、それを活かしてなんぼである。

 そういえば、独立してから、自分のやりたいことがより明確になった。自分と似たようなプロジェクト管理を行う人が少ないこと。ソフトウェアの開発で失敗するということは、その会社にとって避けられる損失を避けることができていないということ。その二つを合わせたら、ソフトウェアの開発で苦労する会社が減るのではないか。そうすれば、その会社の本業が進むことで国力も上がるのではないか。ちょっと大きく出たが、何をやるにしてもソフトウェアが必須となる21世紀において、ソフトウェアを失敗なく効率よく作ることはすごく重要だろう。そのノウハウを一人で抱え込まず志を同じくする人に伝えていきたい。そう思うようになった。これもサラリーマンであるとその企業の中でしか行動ができないということを突破するために必要なことだったのだろう。

 と、調子の良いことを書いているが、実際の会計を見てみると火の車に近い。まず、役員報酬を年に一度しか決められない。利益と役員報酬を連動させることが直接的にはできないようになっているのだ。儲かった分だけ役員報酬として、つまり経費として処理してしまうと、利益を出さないようにすることができてしまうからである。もう少し書くと、利益が出ない、つまり法人税を払わないということができてしまう。なので、役員報酬は会計期の冒頭に設定したら、その年はずっと固定。これは辛かった。世の株式会社の経営者がIPOに走る理由がよく分かる。自分が市場の期待に応えて利益を出せると信じることができるなら、IPOすればウハウハになるのが目に見えているからだ。また、年金も辛い。今まで会社が払ってくれた厚生年金の半額分も、自分で稼いだ金で払わねばならないのだ。このあたりが、一人で会社を立ち上げるか個人事業主として振舞うかの境目なのではないか。また、経費についてもネットに書いてあることと実際は大きく異なる。原則として事業に関係する出費でないと経費として認められないので、何でもかんでも経費にできるわけではない。以前ググったときに見つけたサイトには「プライベートカンパニーを作ればカバンでも靴でも経費にできる、なぜなら講演時にふさわしい服装をしなければならないから。」という記載があったが、役員が身につける服装は会社の経費としては認められない。まず認められる出費は、打ち合わせで喫茶店に入る、喫茶店で仕事をするぐらいだろう。これもサラリーマンであれば出費全額を会社に払ってもらうことができたが、自分の会社の経費にしたところで利益が圧縮できるというだけで、お金が出ていくことに違いはない。こういうことが積み重なり、会社を余裕を持って経営するためには、感覚値だが一人で年間2,000万円は売り上げないとならない。この数値はサラリーマンのころに感じた数字と全く同じであり、自分で会社を立ち上げたのなら、この2,000万円は自分で稼いでこないとならないのである。

 仕事をしつつ、仕事を継続的に得つつ、同じ仕事をしていては食えなくなるので将来の事業展開を考えつつ、日々過ごすことになるわけである。そんな日々を一人でやり過ごすことは到底できない。仕事上でもプライベートでも、完全に信頼できるパートナーがいないと無理だろう。幸いなことに自分には家族がいるし、すごくフレキシブルに対応してくれる税理士に顧問になってもらうことができた。この二つがなかったら、とうに諦めてサラリーマンに戻っていたことであろう。感謝。

 2019年の日記には、RuPaulの曲のことをいくつか書いたが、今私の中にあるのは、UntuckedでQueenがよく言及している “saboteur” という言葉である。日本語の字幕では「内なる悪魔」「自分の敵は自分」というように表現されている。仕事がもらえないのではないか、仕事がうまくいかないのではないか、出した請求書は受け取ってもらえるのか、本当に入金されるのか、今ある仕事がこれ以上発注されなくなるのではないか。物事をそんなふうに悪く考えてしまうことを “saboteur” と彼女たちは表現し、物事をよくないように考える数だけ、悪魔が自分の中に存在していると言っている。私も、そんなふうに考えたら、本当にそういう最悪な事態が起きてしまう。だから、自分の成果を最高と思えるところまで高めなければならない。昼夜や休日を問わず、できることをやり続けなければならない。このように考え方が変わったのが、この半年で得た一番大きな収穫のうちの一つであろう。そして、自分が “saboteur” に負けそうになっていると気づいたのもまた、Dragrace を見ていたからである。この番組から得られることはものすごく多い。

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紅殻のパンドラ 17巻にみるメモリ空間上の意識体と人間の定義

作画が春夏秋冬鈴さんになって、漫画としての面白さと美しさを兼ね備え、名作を超えて傑作と呼んでもおかしくなくなった、紅殻のパンドラの17巻を購入してさっそく読了した。16巻では「機械の動きを人の動きに制限する」ということが、究極の生体を遊びで作っていたウザルの趣味の悪さを物語っていた。これまでのSFでは機械ないしロボットが人間を超えることが一つのテーマとして語られることが多かった。あるいは人間に近くなりすぎたロボットがテーマであった。そしてロボットと人間の間の感情(愛や信頼)もありふれたテーマであった。しかし紅殻のパンドラでは、生体は製造することができ、人間と機械の境界は曖昧であるという前提がある。その上で読者はウザルの世界を楽しまされている、機械が「自由」になればなるほど人間から離れていくというこれまでのSFとは異なるベクトルによって。

17巻は電脳空間での話が続く。この作品で素晴らしいのは、電脳空間がメモリ空間の描写として素敵なところである。コンピュータサイエンスの教科書的には番地とかNULLとかシフト演算とかから始めたいところであるが、そういう話を全部飛ばし、かつ仮想化技術によって実現された無限のリソースを表現することができているのである。ニコちゃんは、インスタンスを複製してレプリカを作り処理能力を増大することができるEC2のような動きのものを手本にしているようだ。ニコちゃんのレプリカたちは紙面を実際に占有し、自らの体を変形させてドローンなどのツールにすることができている。これはメモリ空間上に存在するデータとプログラム(メソッド)を複合させたオブジェクトの挙動として描かれている。読者向けには単に「プログラム」として紹介されているが、ただのプログラム(ソースコード)だったらバイドに感染されることはできない。このことからもメモリ上にロードされたオブジェクトの挙動だと言える。一方ネネとクラリオンとフォボスは、レプリカを生成することはない。物理世界では相手の目を盗んで自分を複数に見せるようなことをやっていたが、電脳空間ではそのような表現が見当たらない。ものすごく高機能な単一のオブジェクトとしてコンパクトに描かれている。そしてニコちゃんはネネを「機能が欲しい」「性能が欲しい」という表現で羨む。

物理的な生体として人間と機械の差がない世界において、意識体とプログラム(オブジェクト)の差は、自分のレプリカを作ることができるか否か、より正確に書けば、レプリカを必要とするか否か、にあるとこの作品は描いている。

例えばフォボスは、メモリ空間上で(じゃなかった電脳空間上で)消去された自分の一部を自動的に復元している。オブジェクトであればもう一度作り直せばいい話だが、わざわざ生き残った自分から復元している。その方がコストが高いことも復元の速さにニコちゃんが驚愕する様子で示されている。自分がレプリカを作るときはさほど苦労していなかったが故に、フォボスの能力が際立って描かれているシーンだ。もう一つ、フォボスがプログラムであれば、電脳空間でクラリオンと戦う時に、まず真っ先に自分のレプリカを作って優位に立とうとしただろう。ところが彼女はそうはしなかった、ないしできなかった。なぜならば、フォボスはプログラムではなく意識体だからだ。ウザルがフォボスに、自己複製機能ではなく自己修復機能を与えたのは、生命をつくりだそうとしていたからではないか。そしてウザルはそれに成功したのだ。

映画版攻殻機動隊で少佐と人形使いは、生命であることの定義を子孫を残すこととレプリカ(作品上の表現は「コピー」)を作ることの違いである、と論じている。それが正しい生命の定義だとすると、フォボスやクラリオンにレプリカを作る能力を与えず、生殖能力も与えなかったウザルは、意地悪を通り越して悪魔のような存在に私には思えてくる。なぜなら、フォボスやクラリオンは機械にも人間にもなれない、中途半端な存在として生きなければならないのだ。しかも、修復能力はもっているのだから、死ぬこともできない。フォボスが母を求めるのも当然である。こんな中途半端な存在で生まれたくなかっただろうし、しかも自分の記憶はクラリオン由来のものであるから自分と他者との境界も曖昧であり、自分の目的を与えてくれる母は行方不明になってしまい何をするべきかも分からなくなってしまったのだから。そんなフォボスにネネが与えるものは記憶である。いや、思い出といったほうがふさわしいだろう。そのことで、フォボスは人間に一歩近づく。生殖機能を持たないまでも、固有の記憶を持った意識体として彼女は生きていくことができるようになった。

ここまで考えてきて、
機械やプログラムとは、自分を複製(レプリケーションないしコピー)することができる存在。
意識体は、自分を修復することはできるが複製することはできない、つまり「個」という境界を持つ存在。
生命は、記憶(思い出)を持ち生殖機能を持つ存在。
として整理できるのではないか。この漫画は、ネネの世界平和という夢を軸に21世紀のメモリ空間上における生命を定義しようという、極めて意欲的なものだと私は考えている。

そして、「クラリオン型意識体の元はブリン」という仮説を、私はまだ持っている。ブリンはウザルの妹、でどうだろう。

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inetd.co.jp提供レンタルサーバにてWordPressのインストール先とサイトアドレスを異なるものにした場合のTips

自社サイトを立ち上げる際に、ウェブサイトの構築をお願いした方の指定で、WordPressのファイルを一つのディレクトリにまとめておいてほしいというものがありました。これはそんなに難しいはないではないはず、なのですが、アイネットディー社の提供するサーバでは一癖ありました。

まず、インストールと設定はすんなり終わります。しかし、ログインができなくなります。

Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function gzinflate() in

とかいわれます。ググると、gzipのライブラリがない際に起きるエラーだと言われます。しかし、レンタルサーバなのでgzipなどのライブラリは全部インストール済みのはずです。色々と調べた結果、ユーザー毎のphp.iniにextensionを指定してやらなければならないことがわかりました。場所は、sshログイン後の.phpフォルダ内にphp.iniがあります。こちらにextension=zlib.soを記載してあげればOKです。プラグインのダウンロードに必要なOpenSSLも動いていないようです。ググレドモググレドモ、Windowsの話ばかりしか出てこなくて若干焦りましたが、こちらもphp.iniに追記することで動作するようになりました。他にも必要になりそうなcurlやmbstringも念のため加えておきました。結局、追記したextensionsは以下の通りです。

 extension=zlib.so
 extension=curl
 extension=openssl
 extension=mbstring 

アイネットディー社は質実剛健なサービスを安価で提供してくれているので大好きなのでおすすめです。今回の件も、実はマニュアルにまとまっていました。

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2019年を振り返って

2019年のチベット問題

年に何度かしか更新しないこのブログが、こうやって年末に長文を綴ることができる場として機能していることを嬉しく感じています。誰に何の気兼ねもなく書きたいことが書ける、それが当たり前でない人々のことを思いながら何年も経ち、一向に改善されないその方々の現状に苛立ちながらも、香港において駆け引きの道具であることを承知しつつも、成果が出たことを嬉しく思ったこともありました。しかしながら、私が直接的に関わってきたチベット問題については、新たな焼身抗議の知らせを聞いたのみで終わってしまいそうです。

起業のご報告

私自身を振り返ってみると、この数年を凝縮した一年になったような気がします。随分前から忍耐強く、「やりたいことをやれ」という私の本質をついた指摘を続けてくれた坂口さんの助言もあり、今の仕事を辞めて起業しました。ただ、ここに至るまでに様々な形で色々な人の強い意思や決意を目の当たりにしてきたことも、臆病者の私が一歩踏み出すのに重要だったと思います。少し長くなりますが、書き出してみようと思います。

  • 今年で終わったOrange is the New Blackは、私の人生に大きな影響を与えた映像作品の一つになりました。女子刑務所を舞台とした群像劇で、様々な人々がそれぞれの困難に立ち向かう姿と、それを演じる役者たちに心底惚れ込んでしまいました。中でもNatasha Lyonneは、彼女自身の人格が役柄に見事に投影されているように感じ、その台詞を英語で聞いて学習することでさらに好きになるという好循環をもたらしてくれました。子供の頃にSuzanne Vegaで英語を勉強した時の再来です。
  • RuPaul’s Drag Raceも、多数のクイーン達の受けてきた凄まじい差別や暴力を乗り越えて挑戦し続ける姿に感服しました。この人たちがここまでできるのに、自分が座して不平不満と共に生きていくことを許すわけにはいきません。これまでの人生から全く違った人生への第一歩を、Mama Ruのこの曲と共に踏み出しています。
  • 過去の職場の同僚が何気なく教えてくれたFight Clubも、観るまではその良さがわからなかった映画でした。特に、これを勧めてくれたのが女性だったことで観る気になったことは私にとって大きかったと思います。もし男性が「男が素手で殴りあう映画」と紹介してくれたなら、単なる男性至上主義の映画としてしか捉えることができなかったであろうという意味です。そして、町山智浩のこの解説を聞いていたことで、OITNBの言いたいことを理解する素地が私の中に育まれていたと感じています。
  • 2019年は、Fab 5が日本に来た年でもありました。収録期間中にInstagram上での目撃情報がどんどん上がってきたことに感化され、なんとかして彼らとすれ違うことができないかと頑張ったりもしました。残念ながら叶うことのない願いでしたが、それでも番組の中で彼らが日本人に語りかける言葉は私の中に強く残りました。
  • 自由意志についてずっと疑問に思ってきた私にとって、JokerDark Nightも避けては通れない作品です。自分自身というものが存在するのか、自分の考えというものは存在するのか。これまた町山智浩の解説で視野が広がりました。

起業するからには事業内容を考えないとなりません。私がやりたいことを、ソフトウェアの開発を成功させたいことだと定義しました。そして、自らがソフトウェアを書くわけでもなく、自ら作りたくてたまらないものがあるわけでもない私は、その二者の橋渡しをすることに注力することにしました。これまでもこの仕事をやってきたのですが、一方の都合ばかりが重視され他方が犠牲になるということに辟易していました。ただでさえ優秀な技術者が不足している現状において、これ以上開発現場を軽視することで発注者側が得るものは何もありません。一方で開発側の都合により計画が遅延したりソフトウェアの品質が十分でないことによりビジネスに与える損害も無視できません。この損害は避けようと思えば避けられるものだけに、発注側はもっと「うまいことやる」ことが求められていますが、その具体的な方法は杳として知れません。この問題を解決することに、私の勝機があると感じました。

起業するにあたり、一番悩んだのは会社名です。Mama Ruの台詞からとってEleganza Extravaganzaにしようかと思いましたが、あまりにも抽象的すぎますし意味が分かる人が限られるし説明するのも面倒なので、自分が好きな日本語のひとつである「傾聴」にしました。開発側と発注側の双方のすり合わせを、意見を聞くことで進めていくという私の行動指針を社名にしたのです。何人かの方に名刺を渡して様子をうかがったところ同業の方からは好評ですが、ソフトゥエア業界にいない人からは「なんの会社で何をするのかわからない」というご意見もいただいたので、名刺を含めた広報においてこのご意見を念頭に置いて進めようと思っています。

幸いなことに年始から二つの案件を受注できており、これを成功させて会社としての実績を積み上げて、ゆくゆくは志を同じくする方と共に仕事ができればと思っております。

起業以外

生まれて初めて鈴鹿サーキットを走りました。といっても、レースではなく先導車つきで速度も限られているものです。ちーっとも面白くありませんでした。旅費を含めて三日間と数万円を費やすのなら、関東で開催されているスクールの方が自分の限界を知ることができてよほど面白いと分かりました。鈴鹿まで自走して往復し、せっかくなので三重県もすこし走ってから帰って来たため、復路一日で700kmぐらい運転しましたが、BMWの長距離ツーリング性能は本物であることを改めて実感できたことが収穫でした。来年はタイヤをミシュランのPILOT ROAD 4 GTにしてみようかと思っています。FTR223は、足として都内を駆け回ってくれました。ほぼオフロードに行かなくなったので、来年にはK180からTT100GPに履き替えて、チェーンとスプロケットを交換したいと思っています。

カメラは特に変更なく、今ある機材でセンスを磨くべく頑張ってみました。

旅行にも行きました。マダムと北海道を旅したり湯河原に行ったり、フジロックに出店したり、台風が直撃する直前の房総半島を回ったりしました。来年は、一仕事終えたら海外にふらっと行ってみたいなと思っています。

語学は、アメリカ人の友人と話す時間がかなりあったことと、OITNB の Nickyの台詞を必死になって聞いていたので、かなり上達してきた気がします。英語の電話が怖かった自分を遠く昔の出来事のように感じます。その友人は帰国したので、他に英語を使う機会を見つけないとせっかく上がった能力がまた落ちてしまいそうで怖いです。

バレエやクラシック音楽については、今年は金銭的理由もありあまり楽しむことができませんでした。しかし、緑のテーブルを見ることができたのはなによりでした。連れて行ってくれたマダムに感謝します。萩尾望都のポーの一族展に一度しか行けなかったのは残念でした。

映画はほとんどNetflixになりましたが、前出のJokerに加えてアムネスティ主催の海は燃えている上映会は意義深いものでした。一人の子供を通じて人間の愛と暴力性を同時にここまで描いていることに、深い感動を覚えました。Amazon Primeでみることができますので、こちらからどうぞ。https://amzn.to/2QyD0bB

来年の抱負

とりあえず進むしかないです。テーマソングは、臆病者の私でも進んでいくことをためらわないこの曲に決まりです。

最後になりましたが、いつも支えてくれているマダムに改めて感謝します。ありがとう。

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信頼できるサービスと価格

会社を立ち上げて、まず困るのが銀行口座である。私が起業するとき、具体的には登記する際に個人名の口座を新しく作ってそこに資本金を入れたが、売上を入金してもらうには法人名義の口座がほしい。実際に、社員一名のみの企業で個人名義の口座で業務を行なっている知人に送金するときに、経理から「本当に会社? 本当にこの個人名義の口座に入金していいの?」と問い合わせが来たこともあった。

創業間もない企業で銀行口座を開設することは難しいらしいが、私の場合は税理士さんに紹介してもらってメガバンクに口座を開設する予定である。企業後、取引は一つもなく、経費すら使っていない状況で、である。審査も数日で終わっている。

ところが、別の税理士さんから同じメガバンクについて「マネーロンダリング対策が厳しく、まず口座を作ることができない。」「どうしてもというなら紹介してもいいが、断られるかもしれないし、結果が出るまでに1ヶ月以上はかかる。」という話を同時期に聞いた。同じ銀行でこの差はどこから生じるのだろうか。

まず、私が契約している税理士の顧問料は、他の中小企業の相場より多少高額である。しかし、私の顧問税理士は「他の税理士法人から転職してきたが、ここの税理士法人のやり方だと会社が潰れにくい。それは〜〜。」としっかり説明してくれたし、今後1年間で絶対に出て行くお金、つまり税金の時期を顧問になる前からアドバイスしてくれた。顧問になった後も、事務担当とはchatworkで迅速にやり取りをしてもらえるし、質問にもすぐに答えてくれる。

一方、1ヶ月はかかると言っていた税理士の顧問料は、平均的なものである。多くの中小企業この相場でやっているよね、と言えるものである。つまり普段は仕分ばかりやってもらい、年に一度決算をしてもらい、会社の運営の相談は年に数回のみ企業側から働きかけた場合のみ、ということだそうだ。やりとりもメールで、顧問料の見積もりもすぐには出てこなかった。そういう速度感で経営者から働きかけないとアドバイスをもらえないとしたら、多忙に任せてキャッシュフローを見ることも、将来の売り上げ予定を追いかけることもなく、気がついたら現金が足りなくなり融資も増資も追いつかないということになるのである。

この差は決定的である。お金に関わることを常に相談することができ、会社の状況に応じたアドバイスを提供してもらうことで、ただのサラリーマンが経営者に育って行くのである。そのために顧問料を払うのなら、多少高額でも納得できる。仕分けだけやる税理士なら、会計ソフトの使い方をマスターすることでご用済みになるであろう。AI会計で税理士を解約しよう!なんて製品もでてくるかもしれない。一方、私は今の税理士との顧問契約を続けるであろう。単なる仕分担当ではないアドバイスをもらえること、信頼できるコネクションがあること、そんな本物の「プロフェッショナル」が提供するサービスは、自ずから高額になるのである。

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「ジョーカー」の感想文への反論

映画「ジョーカー」の感想文で評判になっているものがあるが、あまりにも危険な内容だったので反論をしておくことにした。

その感想文とは槙野さやか氏による
「ほんとうはもっと与えられるべきだった」と無根拠に思いこむ人間の恐ろしさ  映画『ジョーカー』
である。

論に入る前に私の考え方を明らかにしておくが、私は暴力を肯定しない。銃はこの世から無くなるべきだと思っている。アーサーないしジョーカーが殺人をはじめとする数々の罪を犯したことは許されず、彼は法により裁かれ罰を受けるべきである。

さて、この感想文で著者は
1. アーサーは特に貧困を極めた者ではない。
2. アーサーは貧困だから立ち上がったのではなく、自分に与えられるべきものが与えられなかったから立ち上がった(感想文中の表現を引用すると「ジョーカーになった」)。
3. 結論として「アーサーみたいな人、増えてるもんね、なんかこう、無限の賞賛を求める系の人。ホアキン・フェニックスがアーサーを魅力的に演じすぎていて、まるで時代のヒーローみたいに見えて、よろしくないよ、あの映画はだから、私は支持できないよ」
と述べている。私は問いたい。立ち上がるのに理由がいるのか。「無限の賞賛を求める系の人」が立ち上がって何が悪いのか。

著者が述べているアーサーの人物像は映画と矛盾していない。アーサーが色々なものを切望していることも明らかである。白雪姫のように受動態であるという表現は、あれだけの事件を起こしている人物に対して的を得た表現なのか疑問であり、あえて言えば滑稽な描画であるとは思うが、アーサーが積極的に事態を改善しようとしないと言う意味では間違いではない。普通に起こる不運を受け、何もできなかった人物が「ジョーカーになった」ことを著者は徹底して批判する。まるで、普通の不運の人は黙って不運であり続けろ、と言わんばかりだ。立ち上がるのに状況や身分が限定されるという主張のように解釈できる。「無限の賞賛を求める」こと自体が許されないことのように述べられている。これらの記述は、著者の中に隠された選民主義がこの感想文に顔を覗かせてた片鱗であると、私は感じる。

著者はどのような立場の人物なら「ジョーカーになっ」て良いと考えるのか。極度の貧困状況に置かれて親から虐待の限りを尽くされなければならないのか。アーサーが「無限の賞賛を求める」ことを批判しているが、人がどのような考えを持つかは、基本的人権の中でももっとも重要な思想や言論の自由として絶対的に保証されていることを著者は理解していないのだろうか。

著者が述べているように、この映画でジョーカーは時代のヒーローとして描かれている。ジョーカーは倒され落とされ続けた最後の最後で、クラウンたちからの無限の賞賛の中で破壊されたパトカーの上に立ち上がる。これは、権力者による理不尽な仕打ち、例えば社会的支援を打ち切られること、自分たちの金がごく一部の企業や政治家に還流していること、禁止できるはずの銃を手にしてしまうことなどに対して民衆が立ち上がることを示している。最後のシーンを「与えられるべきものが与えられなかったから、周りのものをぶち殺してやったぜ。」としか理解できないのなら、なんと不幸なことだろう。そのような表面的理解しかできないからこそ、普通の貧者や無限の賞賛を求める人は立ち上がるべきでないというような感想文を書いてしまうのだろう。

この映画は、肥大化した自意識を制御できなくなった者が、同類を率いてテロリスト組織を作ったというものではない。現実世界において、これだけの悲劇が続くのに未だ銃を禁止することができない米国、人々が最低限の人権を享受して生活する最低限の権利すら与えない国々、その状況の中で絶望して生き続ける人々に団結して立ち上がる勇気を与えるのがこの映画の目的である。だから私は、この映画は素晴らしいと思う。

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暴力

ショック・ドクトリン

久しぶりに興奮する本に出会った。これまでに人間の本質に近づくことができたと感じた瞬間はいくつかあったが、この本はその瞬間をもう一つ増やしてくれるものだった。

この本は2006年から2007年ごろに記されたものを2011年に日本語に翻訳されて出版されたものである。今は2019年、この本が出版されてから10年以上経つが、この本の最後に述べられている市民の覚醒とフリードマン信者の衰退は限られており、ショック・ドクトリンはまだまだ有効であるように感じられる。それを一番端的に示すのは、トランプが米国の大統領であるという事実である。それについて論じた本も出ているので、次はこれを読みたい。

こうしている今も温暖化は進み、国家という枠組みを大きく超えた大惨事が起きつつある。フリードマン信者は次なる儲けの機会を虎視眈々と狙っている。私たちは、いかに衝撃的な事態が起きようと、いかに過激な表現に触れようと、常に冷静に目の前のこと以外のものを観察しなければならない。誰が何を決めようとしているのかを監視し続けなければならない。そして、私たちは立ち上がって声を上げなければいけない。衝撃で気を失っている場合ではないのである。過去にどのような衝撃がもたらされ、何が起きたのかを予め知ることで、衝撃に対する耐性を持つことができる。この本は、フリードマン信者の攻撃に対するワクチンのような存在である。

一つ思うのは、この本に対してフリードマン信者の反論はあったのだろうか、ということである。フリードマン信者が各国でしでかしてきた失敗の原因は、この本に書かれている通りなのだろうか。それとも別の原因があったのだろうか。それを検証することは困難だと思うが、だからと言って議論が不要だということではない。過去を知ることで同じ失敗を早期に見つけ、多様な主張を戦わせることで自分たちの進むべき道を選ぶことが必要なのだ。

この本を読んでいて、一つの映画を思い出していた。
「ザ・コーポレーション」
企業の行動を人間とみなして評価すると、法に従うこともせず感情もない、悪魔ですら逃げ出すような恐ろしい人物だということを示した映画であった。一人の人間でそこまで恐ろしい人物はなかなかいないだろう。そして通常の企業は、数人あるいは数十人の経営者で運営されている。つまり企業とは所詮は人の集団である。人間とは集団になると、悪魔ですら恐怖で逃げ出すような意思決定ができるものなのであろうか。集団になった時の人間というものが、次の自分の勉強対象になったような気がする。