映画 “Nowhere to call home” の感想

この映画を観終わった後、私が最初に思った言葉は「都合の悪いことばかりな映画だ」でした。チベット人にとっても、漢民族にとっても、中国政府にとっても、チベット・サポーターにとっても、この映画が示す現状は都合の悪いことで満ちています。チベット問題を全て解決する事などできるのだろうか、と考えざるを得ない映画です。

これ以降、ネタバレを含む感想を述べます。また、登場人物の正確な氏名表記が分かりませんので、公式サイトに掲載されているストーリー紹介のページの欧文表記に合わせて記載します。主人公はZantaという女性でありYang Qingという名の息子を連れて、故郷から逃げ出し北京で露天商で食いつないでいます。ZantaとYang QingのIDは義理の父に奪われています。Zantaは北京ではチベット人である事でひどい目にあいIDがないことで生活が困難な状況にあります。故郷では女性である事で息子の養育権を奪われそうになっています。つまり、民族問題と女性問題の双方に苦しむ主人公を描いたドキュメンタリーという構成になっています。

チベット・サポーターである私の視点から見ると、前半部は想像に難くない事実でした。チベット人であるというだけで家も借りれず、借りたとしても警察に踏み込まれ、息子に教育を受けさせることもできない。中国政府の発行するIDがないので不法移民扱いされる。Zantaがチベット人だと分かった漢民族が彼女を見る目は、誰がどう観ても彼女を蔑むものである。Zantaはそのひどい仕打ちの数々について神の不在、あるいは神の彼女に与えた仕打ちであると嘆き悲しんでいます。ここで、チベット人なのにカルマという概念を述べないところが、すでに主人公が漢民族の文化圏に適合し始めていることを示しています。このことは主人公の母と比較すると明らかです。Zantaがここまでひどいカルマを背負っているのなら殺してしまえば良かった(おそらく堕胎を意味しています)と発言しているからです。漢民族に国家を奪われるのみならず文化や個人の考え方や発言までが漢民族の影響を受けている、それはくり返し指摘されてきた事です。そしてチベット人がそれに対抗し得るのは、彼らが仏教徒であり仏教の考え方で行動しているが故であると考えられていました。しかし、この映画に描かれている北京にいるチベット人は、そのような状態ではないと示されています。漢民族の文化圏にいるチベット人は、チベット人ではなくなりかけているのではないかという疑問を持たざるを得ません。漢民族の侵略により分断されたチベット人は、チベット人であり続ける事が困難になってきているのです。

そしてZantaが息子のYang Qingを連れて旧正月に実家に帰る時、その家あるいは地方では女性に価値はないとの証言が紹介されます。また、Yang Qingが男子であるが故に義理の父にYang Qingを渡さねばならないという状況に陥ります。これはチベット圏に詳しい人からすると到底理解できない、あるいは納得がいかないことです。河口慧海の「チベット旅行記」にも記載がありますが、チベット人の社会で女性は男性と同等に、あるいは男性よりも決定権を持つ存在として伝えられてきました。この事は上映会に参加していた複数のチベット人および日本人の中でも最もチベットをよく知る方の一人から強く「これはこの家族だけの話だ」と指摘を受けていました。ジャーナリストが陥る罠、つまり自分が取材した事象が広く一般の基準であると誤解してしまう過ちをこの映画は犯しています。

この映画の監督は、Yang Qingに教育を受けさせる為に義理の父が署名すれば効力を発揮する同意書を弁護士の指導を受け作成します。同意書の内容は、おそらくYang Qingの保護養育者をZantaとするということだと思われます。義理の父は監督や主人公の予想に反し、同意書に署名しました。おそらく欧米人である監督が介入した事により義理の父がこれまでのように強権を振りかざすことが出来なくなったのでしょう。これをきっかけにZantaはYang Qingを学校に通わせる事ができるようになりました。そして、Zantaは監督の紹介で百貨店の催事コーナーでチベット民族のアクセサリを売ることが出来るようになります。北京で着実に仕事をしていくZantaは、北京は自由で故郷は不自由だと述べます。しかし、彼女にとって北京は故郷ではなく、また実家に戻ることもできない状況になりました。これがこの映画のタイトルであるNowhare to call home、直訳すると「この世に家と呼べる場所はない」ということを表しています。

この映画は中国政府の関係者や漢民族の学校で上映する事に成功し、好評を博したそうです。学校での上映後のインタビューに答えた学生が「これまで物売りの事を邪魔だと思っていたが彼女のような身上であったとは初めて知った。これまでの自分の行為を恥じて彼女達に謝りたい。」という主旨の感想を語っていました。つまり、漢民族にとってこれはチベット人の物語ではなく貧しい移民の物語だと受け取られているのです。漢民族は、彼らが行ってきた侵略という歴史的事実を理解していない事が浮き彫りになっています。また、北米でこの映画を上映した時にはメキシコ人から共感を得ることができたそうです。これらのインタビューや反響が特典映像などで流通するようになると、現在のチベット問題の根源が中国政府による独立国の侵略により始まったという歴史的事実が無視されてしまい、単に仕事を求めて貧しい地域から富める地域に移動してきた移民の問題として扱われてしまう可能性があります。

また中国政府からすると、「男尊女卑が依然としてはびこっているチベットを開放し、それで一人の女性が北京で自由に暮らす事ができている」という物語は彼らの行為を正当化することを利するでしょう。つまりこの映画は先に述べた個別の問題を一般化するという過ちによって中国政府にとって有利な内容になっているという問題を新たに作ってしまっています。しかし、中国政府にとってチベット人はやっかいな存在であることが映画の前半で何度も暴露されています。例えば警察が主人公を家から追い出す時の台詞が中国政府のチベット人に対する考え方を如実に示しています。「我々は中国人という一つの民族だ。」これに対しZantaは激怒し「私はチベット人だ。チベット人を侮辱するな。」と答えます。元々独立していた国家を武力で侵略したのですから、警察の述べる理屈が主人公に通用するはずもありません。しかし悲しい事にZantaは「同じ一つの中国人と言うなら、なぜ漢民族には部屋を貸してチベット人には部屋を貸さないのか」と理詰めで警察や家主を追いつめることができないのです。中国政府にとってチベット問題が制御不能の事態に陥っており、この問題を平和に解決する事が不可能な状態にある事が示されています。またチベット人が中国政府の圧政に対し、チベット人として統一されておりかつ有効な反論を持つことの難しさも露呈しています。余談になりますが、別の映像で漢民族の活動家がチベット人の取りうる選択肢を述べている様子と、Zantaの感情的な対応の対比が強烈な印象となって私の記憶に刻まれました。

この映画が主張している問題点を私なりにまとめますと、チベット人はチベット人であり続ける事が困難な状況になっており、かつ中国政府に対して有効な反論をチベット人全員が主張することができていない。中国政府はチベット問題を封じ込めようとしているがチベット人を止めることができない。漢民族は彼らが行ってきた歴史的事実を理解していない。そして人権意識が希薄である。そしてこの映画自体の問題点は、チベット社会が男尊女卑であるとしている点、そして監督自身がチベット問題を移民問題と見なしていると思われる点です。

さて、最後にチベット・サポーターにとっての問題点を論じます。まず、チベット・サポーターがこの映画の監督のようにチベット人を支援できるでしょうか。監督が行ったように中国各地にいるチベット人が生活できるように仕事を与え、彼らの子孫に教育を与える調整を行うことが出来るでしょうか。そしてその教育とは、漢民族の施す教育で本当に良いのでしょうか。ほとんどのチベット・サポーターはチベット問題を広く知ってもらう活動を中心に行っています。そして中国政府に抗議を続けています。しかしそれで十分なのでしょうか。チベット本土のチベット人、中国各地のチベット人、ダラムサラのチベット人、世界各国に散らばっていったチベット人それぞれに最適な支援を我々は行うことができているのでしょうか。この映画自体に問題点はありますが、それでも我々チベット・サポーターは現時点でチベット人が直面している問題点をこの映画のように広く伝え、そして個別に彼らの実家に訪れてまで解決することができているでしょうか。この映画を観て私が強く感じた事は、チベット・サポーターが個別のチベット人をより支援すべきなのではないかという事です。そしてこのような映画ができたとき、その映画を広める事も重要ですが、その映画自体の問題点を冷静に指摘し続ける事も重要だと考えます。チベットは男尊女卑の世界ではないこと。ダライ・ラマ法王猊下が宗教と政治の両方を司る旧態依然とした政治制度を漫然と続けているのではなく、民主的な選挙で選ばれた議員により構成されている現代的な政府組織に変わっていることを世界に伝えられているでしょうか。チベット・サポーターとして、現在の活動を続けているだけでは駄目だと強く感じました。