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文化と国境と戦争

「チベットと日本の現代史 もう一つの戦後70年」西川一三、野元甚蔵さんが生き抜いた時代を考える(江本嘉伸) に参加してきました。そこで聞いた話を忘れないうちに書き留めておこうと思います。

いろいろな意味で、今も昔もチベットに入る事は難しい事です。最初の日本人がチベットを訪れた1900年代前半はそもそもチベットが鎖国しており外国人の入国が不可能でした。またその鎖国は地理的特性を活かして実現されていたため、チベットへ向かう手段は現地の動物に乗るか歩くかの二つしかなかったようです。現在のチベットは中国の支配下にあるため、外国人がチベットを訪れる為には入域許可証が必要であると聞いています。今も昔も、チベットを訪れる事の難しさに政治的理由はついて回るようです。今回のお話は1939年から1950年にかけてチベットを訪れた野元甚蔵と西川一三のお話でしたが、彼らはモンゴル人を装ってチベットに入りました。1900年にチベット国境を越えた河口慧海は漢民族を装っていました。日本人であることが発覚すると処刑されかねない時代であったことと、野元と西川のチベットに向かう目的が、外務省からの要請によるチベットの文化や風俗の調査であったためです。

ここで興味深いのは、文化圏と人間の関係性です。例えば、異文化の調査を行っているうちに自分が調査対象の文化の一員となってしまう可能性はフィールドワークに常について回ります。素性を隠す必要がなくともこのような可能性があるわけですから、いったんモンゴル人や漢民族になりきった上でチベットに入るということの困難さは容易に想像できると思います。今回のお話で言えば、野元と西川は日本人である事を辞めモンゴル人になりきり、そこからチベットに滞在しチベットの文化や風俗を調査する事が指示されています。そこでモンゴル人からチベット人に変わってしまっては調査になりませんから、辞めてしまった日本人の目でチベット人を見なければならないのです。しかも言葉はモンゴル人で。

このことをふまえると今日の江本さんの発表において彼らが
「日本語が出ずモンゴル語で話し続けた」
ということは想像に難くありません。また2001年のフォーラムにおいて西川がチベットの歌をチベット人と寸分違わぬ歌い方で歌う様子を見る事は、特別な意味があります。その西川はチベット東部に潜伏している際に
「頭が割れそうな雨」
に毎晩襲われたそうです。さらに毎日盗賊が出てきて一番大切なモンゴルから持ってきた鉄鍋を盗られて、チベットで調達した土鍋は重い上に沸騰しないなどという経験を重ねた結果
「チベットは大嫌い」
と愛憎こもった調子で吐き捨てるように西川は発言しています。しかし、土産物や歌を嬉しそうに披露する西川と野元の様子を収めたビデオを観て私は、彼らが日本政府から依頼された調査を行う為にチベットに潜伏したにしては、明らかにチベットに惹かれていたように感じました。

今回の講演で江本さんは、彼らがチベットに行った意味をその当時の戦況や地政学から解釈する事はまったくなさりませんでした。ただ、彼らを追悼する気持ちでこの会を催した、と。しかし今日の話を聞いたり映像を観たのであれば観た者にも責任が発生するのだとおっしゃいました。つまり、チベットに直接行った西川と野元の話を直接聞いてきた江本さんのお話を直接聞いた我々が、今日観たことを後世に伝えるのだと言う事です。私の凡庸な理解ではこのようなブログを書く事しかできませんが、河口慧海や西川の本を読む事でチベットに行くという事を追体験することは非常に愉快な経験であることは間違いないです。先に述べたように政治的理由で入国が困難であり続けるチベットを、今日の講演の題名にあるとおり戦後70年である今追体験する事。その意味は国家の存在に必須な要素としての国境、もう一つの要素である国民が作り上げる文化、そしてそれらを破壊する戦争、この3つの組み合わせにあると感じました。そして皮肉な事に、戦争が要求した調査において国境を超え異文化に触れるという事が為されたこと。それが西川と野村が成し遂げた偉業なのではないかと考えています。